明治40年 | 廃兵院法(明治39年4月法律第29号〕に基づき陸軍省所管の廃兵院が東京予備病院渋谷分院の一画に設置された。 |
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明治41年 | 廃兵院が、東京市豊島区巣鴨に移転した。 |
大正12年 | 数次にわたる廃兵院法の改正が行われ、この年陸軍省から内務省に移管された。(大正12年3月31日勅令第109号) |
昭和 9年 | 傷兵院法(昭和9年3月法律第12号)の成立により廃兵院を傷兵院と改称。 |
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昭和11年 | 傷兵院が神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(現在の小田原市風祭412)に移転した。 |
昭和13年 | 厚生省の設置に伴い、傷兵院は厚生省の外局として発足し、傷兵保護院に所属することになった。 |
昭和14年 | 傷兵保護院は事業組織を拡大して軍事保護院と改称した。 |
昭和15年 | 軍事保護院は傷痍軍人箱根療養所を併設した。この箱根療養所は当時の臨時東京第1陸軍病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を移し収容した療養所であり、戦傷脊損療養所としては全国唯一のものである。当院が全国唯一の「国立脊髄療養所」に分類されていた由来はここにある。 |
昭和20年 | 太平洋戦争終結により、傷痍軍人箱根療養所は厚生省の外局たる医療局に属して昭和20年12月1日国立箱根療養所と改称、広く国民の脊損医療を担当する施設(100床〕となる。 |
昭和21年 | 厚生省の機構等の改正により、医療局を廃止し、医務局を設置して現在のような厚生省の附属機関となった。傷兵院は昭和21年5月勅令第206号により廃止され、その所管財産は国立箱根療養所が継承した。 |
昭和28年 | 附属准看護学院を設置した。 |
昭和40年 | 西病棟(48床)が完成し傷痍軍人が転棟した。西病棟では、家族と共に療養生活が営まれた。 |
昭和50年 | 国立療養所箱根病院と改称した。 |
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昭和51年 | 成人筋ジストロフィー症の40床を開陳した。 |
昭和55年 | 現在の外来管理治療棟が完成した。 |
昭和56年 | 成人筋ジストロフィー病棟40床の増床がなされ、全部で80床となった。附属准看護学校が廃止され、(卒業生総数373名)、附属リハビリテーション学院が発足した。 |
平成 3年 | リハビリテーションの機能訓練施設が完成した。 |
平成16年 | 独立行政法人国立病院機構箱根病院に組織変更した。附属リハビリテーション学院が閉校となった。 |
平成18年 | 3床だけ使用していた西病棟を閉鎖し、傷痍軍人を一般病棟に収容した。障害者自立支援法に基づく療養介護事業を開始した。 |
平成20年 | 傷痍軍人の入院が終了した。 |
平成21年 | 神経難病患者のレスパイト入院を開始した。 |
平成23年 | 「神経筋・難病医療センター」を副名称とし、名実共に神経難病医療と筋ジストロフィー医療を病院運営の中心に据えた。 |
平成24年 | 病院のコンセプトを「命輝く、癒しの病院」と定めた。 障害者自立支援法に基づく医療型短期入所事業を開始した。神奈川県の難病医療協力病院となり、神経難病患者等受け入れ病床確保事業による入院を開始した。 |
平成26年 | 新病棟が完成した。それに伴い障害者病棟80床と療養介護事業80床の4病棟160床運用から、障害者病棟60床と神経難病を含む療養介護事業120床の3病棟180床運用となった。 |
平成28年 | 難病在宅診療を開始した。 |
平成29年 | かながわ難病相談・支援センター運営業務を受託した。 |
平成31年 | 移行期医療支援体制整備等事業を受託した。 |